毛利家のキリシタン大名毛利秀包

一、毛利秀包豊臣秀吉

 毛利秀包(ひでかね)は、永禄十年(1567年)安芸の国郡山城で、父元就七十一歳の時に、継室乃美大方を母に九男として生まれた。

元亀二年(1571年)備後太田家を相続し白井兵庫景俊が秀包の後見人となる。

天正七年(1579年)異母兄小早川隆景の養子となり、小早川藤四郎元総と称し後に元包に改める。

豊臣秀吉は中国平定の高松城水攻めの時、本能寺の変のため急遽毛利家と和睦し中国大返しを行った。

 この時に元包は、毛利家の人質として大阪城へ送られる。

秀吉から元包は大変気に入られ、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いに出陣し、功を上げ秀吉の秀の一字を与えられ秀包と改名する。

 その後、秀包は人質を許され、養父隆景に従い秀吉の四国平定に出陣し、その戦功により大津(大洲)城三万五千石の城主となった。